俺は敗戦の原因を以下のように認識している。
つまり、新聞等の情報を鵜呑みにして、真実を知らせなかった。
その結果、連戦連勝と錯覚し、勝てると思い込んでしまった。
それが戦争の原因じゃないのだろうか。誰かが真実を書けば、違ったのかもしれない。
軍首脳にしろ、首相にしろ、おそらく真珠湾攻撃の後は早期講和を狙っていたと思う。
それが、米国の強硬論もあるがそれ以上に、国内の主戦論に煽られる形で泥沼化して行ったんじゃなかろうかと思う。
ではその国内の主戦論を助長したのは誰か。
その者こそが、敗戦の責任者だろう。
クリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」が話題を呼んでいる。
1945年2月から3月にかけて、日米合わせて約5万人が死傷した硫黄島の激戦を、双方の視点から描いた2部作だ。
登場するのは、英雄に祭り上げられて苦悩する米海兵隊員や、家族を案じながら死んでいった日本兵士ら。敵も味方もない。戦争に翻弄され、命を落とす生身の人間たちを描いたところが共感を呼ぶ理由だろう。
日本軍がハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まって65年が過ぎた。あの戦争の犠牲になった無数の人々を改めてしのびたい。
それにしても、日本はなぜあのような暴挙に走ったのか。
31年の満州事変から40年の三国同盟、さらに南部仏印への進駐から対日石油禁輸へ。後世から振り返ると坂道を転がるように破滅への道を歩まされていく。その歩を進めさせたのは一体誰なのか。
当時の朝日新聞の社説には、三国同盟が締結された時、「国際史上画期的な出来事として、誠に欣快に堪えざるところである」と拍手喝采している。
しかし日米間には何よりも圧倒的な国力の差があった。当時の米国のGNP(国民総生産)は日本の10倍以上、鉄鋼生産量は20倍以上もあったといわれる。しかも、日本は重要物資のほとんどを米国などからの輸入に頼っていた。
冷静に考えれば、勝ち目がないことぐらい分かりそうなものだ。実際、山本五十六氏や吉田茂・近衛文麿・白州次郎氏などは体を張って反対を唱えていたし、東条英機首相にしても欧米列強相手の開戦には慎重姿勢を取っていた。
しかし、「東条は弱腰 勝てる戦をなぜ戦わぬか」とまで民衆に言わしめ、開戦へと導いたのは他ならぬ朝日新聞を初めとする翼賛報道機関ではないか。それをひた隠しにして軍首脳を批判するは、無責任を通り越した厚顔無恥っぷりというほかはない。
『指導者だけではない』と一応申し訳程度に書いているが、作者の半藤氏の言を引用し、「マスコミは戦争をあおり、国民も『やった、やった』と熱狂した」とまるで他人ごとのように記している。
『日本中を狂気が覆っていた』と言うならば、その狂気を蔓延させたのは、他ならぬ朝日新聞だ。旧A級戦犯となった東条英機氏が『世論の圧力で仕方がなかった』等という言い訳はしなかった。まさか『軍部の圧力で仕方がなかった』等と言う言い訳はしないだろう。
硫黄島の守備隊は1カ月余りにわたる戦いの末、全滅する。それから沖縄戦、原爆投下と続き、敗戦に至る。あれだけの犠牲があったにもかかわらず、無謀な戦いを止められなかった無力を思うと、「あんなことは絶対に二度と起きない」と言い切ることはできまい。
どうすれば、ふみとどまれるのか。狂気が蔓延する前に、虚構と捏造に気づく事はできるのか。65年後の今、改めて自問してみると、簡単な答えに行き着く。それは、『朝日新聞を疑え』という事実だ。
ともすれば朝日新聞は良心的・平和的なメディアだと思われがちである。だが、その彼らが吹聴する狂気へと誘う論は、常に亡国へと繋がっている。虚報や捏造は今も綿々と受け継がれ、偏向報道は続いている。その事を忘れてはならない。
[asahi.com :朝日新聞今日の朝刊-国際面]
クリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」が話題を呼んでいる。
1945年2月から3月にかけて、日米合わせて約5万人が死傷した硫黄島の激戦を、双方の視点から描いた2部作だ。
登場するのは、英雄に祭り上げられて苦悩する米海兵隊員や、家族を案じながら死んでいった日本兵士ら。敵も味方もない。戦争に翻弄(ほんろう)され、命を落とす生身の人間たちを描いたところが共感を呼ぶ理由だろう。
日本軍がハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まって65年が過ぎた。あの戦争の犠牲になった無数の人々を改めてしのびたい。
それにしても、日本はなぜあのような暴挙に走ったのか。
31年の満州事変から40年の日独伊三国同盟、さらに南部仏印への進駐から対日石油禁輸へ。後世から振り返ると、坂道をころげ落ちるように破局への道を歩んでいく。弾みがついた歴史の流れの恐ろしさだろう。
当時のルーズベルト政権のスタッフだった経済学者のガルブレイス氏は、真珠湾攻撃の知らせを聞いた時、「狂気の沙汰(さた)と思った」と回想している。
何よりも圧倒的な国力の差である。当時の米国のGNP(国民総生産)は日本の10倍以上、鉄鋼生産量は20倍以上もあったといわれる。しかも、日本は重要物資のほとんどを米国などからの輸入に頼っていた。
冷静に考えれば、勝ち目がないことぐらい分かりそうなものだ。だが、体を張って「待った」をかける政治家も軍首脳もいなかった。
「欧州でドイツが勝てば、日本も有利な講和に持ち込めるだろう」。最後はそんな期待もあって開戦に踏み切った。無責任というほかはない。
指導者だけではない。昭和史に詳しい作家の半藤一利さんは、真珠湾の日に人々が何を語り、書いたかを調べたことがある。「マスコミは戦争をあおり、国民も『やった、やった』と熱狂した」
日本中を「狂気」が覆っていたといえよう。
硫黄島の守備隊は1カ月余りにわたる戦いの末、全滅する。それから沖縄戦、原爆投下と続き、敗戦に至る。あれだけの犠牲があったにもかかわらず、無謀な戦いを止められなかった無力を思うと、「あんなことは絶対に二度と起きない」と言い切ることはできまい。
どうすれば、踏みとどまれるのか。狂気に包まれる前に、現実に目を見開くことはできるのか。65年後の今、改めて自問してみるのは意味のあることだ。
ともすれば私たちの周囲から戦争の記憶は薄れがちである。だが、あの狂気やその種はこの世界からなくなったわけではない。過ちは今もどこかで繰り返され、戦争の悲惨は続く。そのことを忘れてはならない。